Monthly Relay Interview 福島と。
中畑清

#5 中畑清

1954年1月6日生まれ、福島県西白河郡矢吹町出身。
元プロ野球選手・監督・コーチ。 現役時は1980年代の読売ジャイアンツ(巨人)の中心打者として活躍。
引退後は同じく巨人のコーチを経て、アテネオリンピック野球日本代表ヘッドコーチ・監督代行を務め、銅メダルに導いた。
現在は、様々なメディアで野球解説者・評論家として活躍。

自分を育ててくれた福島を盛り上げたい
その気持ちはずっと持ち続けています

中畑清

—中畑さんは、東京でご活躍の今も地元福島と深く関わり続けていらっしゃいますよね。地元の魅力や、印象深い思い出とはどんなものですか?

福島での思い出はいくらでもありますよ!とくに海を初めて見た時の記憶は鮮烈でね、感動したなあ。小学校6年の臨海学校で照島に行った時だった。これは後々になってから思うことだけど、その時の感動とね、震災の時に痛感した海の怖さ。山があり、海があり、平地がある福島独特の風土の中で育ったっていう感覚があるんだけど、自然はいろんな顔を持ってるよね。俺は本当に田舎が大好きな人間だから、地元を盛り上げたいって気持ちはすごく強いんだよね。

—しゃくなげ大使(※各界で活躍する福島出身の著名人)も務められていますよね。

そうそう(笑)。現役の時から、30何年になるなあ。町おこし、村おこしが大好きな人間なんですよ。矢吹って地元の地名にちなんで、「三矢会」っていう自分たちの会を作ってるくらい。俺が親交のある前川清さんとか柳葉敏郎とかみんなを連れて、文化センターでコンサートもやったね。地元のおじいさんおばあさんで満員にして、そこでバカやってね…。

中畑清

—街全体に元気が出そうなイベントです!

そうそう。こんな時代だからこそ元気を与えたい、田舎を活気づけたいんだよね。三矢会の役割はそんな感じで、夫婦、子供、家族みんながボランティアスタッフになって、育ててくれた町を盛り上げていくっていうのかな。そういうのはずっとやっていきたいね。

—中畑さんはどんな子供時代を過ごされたんでしょうか?

俺らの時代なんかはさ、家に鍵をかけることなんてほとんどなかったから、TV番組の『突撃隣の晩ごはん』じゃないけど、自分ん家よりも隣の御飯が良かったら、上がって食べさせてもらったりしてたよ(笑)。テレビがある家にみんなで集まって『ひょっこりひょうたん島』をみたりね…。助け合いとかが当たり前の世界で、そういうことが自然だった。みんなが血の繋がっていない親戚みたいな感じで。

—地元を愛する人柄がにじんだエピソードですね。

福島の人間って情が厚いんだよね。口数も少ないし、どっちかって言ったら内弁慶なんだけど、すごく優しい。行動力に長けてるわけじゃないんだけど、謙虚で面倒見がよくて、内に秘めた何かがあるっていうか。俺は例外だよ? よくしゃべるし、”ラテン系東北人”って呼ばれてるから(笑)。でも、親父もどっちかって言ったらそういうタイプの人間だったね。昔気質の福島の男って感じで、無口だけど、家の柱だった。思えば、野球に夢中になるきっかけもそんな親父の言動だった。

中畑清

—どんな出来事があったんですか?

当時から、とにかく長嶋茂雄さんに憧れて、野球に夢中だったんです。グローブもユニフォームも手作りで、背番号書いたりしてね、もう長嶋さんになりきってましたよ(笑)。そんな小学校5年の頃だったかな、親父に初めてグローブを買ってもらってね。当時はそんな高価なもの絶対に買ってもらえなかったんだけど、ある日突然、クリスマスのサンタクロースみたいに枕元にあったんですよ。「父さん、これどうしたの!」って言ったら、無口で不器用な親父が一言、「野球やりたいんだろ?」って。今振り返ってみると、それが野球にのめり込んでいく、本気になっていく最初のきっかけだったと思う。

—とても素敵なエピソードですね。

それで、高校は特待生って形で学費を免除してくれるっていうんで、安積商業高校に進んだ。当時はまだ歴史は浅い学校だったけど、無名校を有名校にしていこうっていう取り組みで、田舎でそんな制度はなかったから、それに飛びついて行かせてもらったんですよ。自分から面と向かって親父に口をきいたのは、その時が初めてだったんじゃないかな。「高校、行ってもいいかい?」って。親父は怖かったし、ふれあいっていうほどのものはほとんどなかったんだけど、要所要所ですごく印象深いことがありますね。野球のこともそうだし、たまに連れてってくれた映画や食堂とかね。

中畑清

—中畑さんのソウルフードでしょうか?

実家の近くにある「食堂あたご」っていうんだけど、そこの餃子が大きくってもちもちしてて、にんにくが効いてね。もう本当に美味しい!4つ食べたらお腹いっぱいになるんだけどね。今も餃子専門でやってて、帰ったら必ず食べますよ。あれはソウルフードであり、パワーフードだね。肉汁がじゅわって出てくるあの食感を思い浮かべたら、今すぐにでも食べたくなるくらい。外食なんて夢のまた夢の時代だったから、特別だったね。今でこそ、幸楽苑みたいに気軽な値段で外でラーメンが食べられるような時代なったけど(笑)。

—幸楽苑も食べますか?

すぐ近くにもあるし、食べるよ。同郷だし、社長との付き合いも長くてね。幸楽苑の創業(昭和29年)は俺の生まれ年と一緒なんだよ。あと、「幸楽苑」って名前もね。俺は「後楽園球場」で育った選手だからさ、勝手に縁を感じてるというか、親近感がすごい湧くんだよね(笑)。

中畑清

—たしかにすごい偶然ですね!

“福島を元気にしたい”っていう思いも一緒な気がするし、より深く自分との接点を見つけたような…。だから、幸楽苑さんには、今の活気を継続してもらって、そのパワフルさで一緒に福島を盛り上げていきたいって思っています。全国展開だけど、土台は福島。故郷への恩返しをこれからも一緒にやっていきたいっていう同士のような気持ちです。

—中畑さんの福島への熱い思いがお伺いできるインタビューでした。

震災後炊き出しに回った時、みんなが輪になって本気になってくれたし、涙を流しながら喜んでくれた。あんな状況だったけど、福島県民で良かったとつくづく思ったんです。復興っていうのには時間がかかるものだけど、みなさんがすごく頑張ってくださってるから、東北は、福島は元気!福島にしかない素晴らしさもたくさんあるから、たくさんの人にその魅力を知ってもらいたいって思っています。

写真/KAJII
取材・文/杉田美粋

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