Monthly Relay Interview 福島と。
寺島実郎

#2 寺島実郎

1947年北海道生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了後、三井物産入社。
ワシントン事務所長、三井物産常務執行役員、三井物産戦略研究所会長等を歴任。
現在一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長を務める。国の審議会等委員も多く務める。
著書およびメディア出演も多数。自身で集めた書籍・文献を集積し、知的生産・発信の場として「寺島文庫」を設立。

時代と戦っている産業や企業を応援したい
幸楽苑もそのひとつです

寺島実郎

—まず、国内外で幅広くご活躍の先生がまだ故郷にいた頃、どういう少年期をお過ごしだったかをお聞きかせいただけますか?

北海道の炭鉱の町で生まれましたが、いわゆる「旧制高校生」みたいな生き方をしていました。ものすごい数の本を読み、今の時代から見れば、珍しい少年だっただろうと思います。高校1年生の時、欧州統合の父と言われているクーデンホーフ=カレルギーという人が書いた本についての新聞記事を見ました。記事にはその本の情報と、思想の中心には日本人もいるということが載っていて、これはどうしても読みたいと思い、その本の翻訳者で、鹿島建設の会長であり外交官でもあった鹿島守之助さんに直々に手紙を出したのです。「高価な本でとても手に入らないので、ぜひ送ってほしい」と。実は、鹿島さんの秘書がその手紙を長年保管しており、半世紀経ってから、何と現物の手紙が時を超えて自分の元に帰ってきたのです。タイムカプセルが開かれたような気分でした。このエピソードが私の少年期を示す象徴的な出来事です。

—直々にお手紙を書かれるなんてものすごい行動力ですね。早稲田大学上京時に至っては、「福島」は東京を象徴するようなスポットだったそうですが…。

そうです。北海道の青年からしてみると、夜行列車で東京に向かう際に、福島を通過するとものすごく気持ちが高まります。「もうすぐ東京に着く、いよいよ自分は東京へ行くんだ」という田舎出身者の持つある種の高揚感というものでしょうか。仙台を越えて、福島に近づいてくると緊張感が出てくるような感じです。そういう思い出があります。

寺島実郎

—景色とかも覚えていらっしゃいますか?

例えば、白河の関と呼ばれるところがありますが、そこが、いわゆる「ここから北は東北」という地点なのです。北海道から津軽海峡を越えて東京に来た人間にとっては、その地点は、ものすごくシンボリック。北の人間が夜行列車で東京に出て行く時に、同じようなことを感じたのではないでしょうか。ふるさとを背に東京へ向かう。そういうモチベーションを歌った歌もたくさんありますよね。人口と産業が東京に集中していく中で、北からそういった人たちを引き寄せて、戦後の日本は出来上がっていきました。福島を訪れると、自分が上京した時のことを思い出しますね。

—先生はとても幅広いジャンルでご活躍ですが、その頃から、今のようなお仕事に就きたいと思っていらっしゃったんですか?

「1つの肩書きでは収まらないような生き方をしよう」と思っていました。境界人、マージナルマンと言います。複数の系の境界に立つ生き方という意味です。
世の中一般のカテゴリーでいう「商社マン」に入る時代もあり、そこでの仕事に対して評価を受けて役員を務めた時代もあり、組織人としてやるべきことはしっかりやりました。しかし同時に、時々会社(組織)を“うちの会社”と呼び、そこを唯一の世界と思い込んで埋没してしまう人がいますが、そういう生き方はよそうという気持ちも持っていました。

—なるほど、ではどんな生き方を?。

いつでも必ず、客観的に会社を、社会を見る目を持っておく。そういう意味で、外に自分の立ち位置やフィールドを見つけていこうという思いがありました。産業にベースを置いた仕事、研究者としても評価を得るようなアカデミズムに関わる仕事、そして、日本総合研究所というシンクタンクも率いているので、絶えず時代を観察して、自分自身の視座を持つこと。「産官学」全てに軸足を置いて、同時にテレビなどのメディアにも関わっていく。どれも中途半端にかじるのではなくて、それぞれにおいて、しっかり評価される生き方をしていきたいと思っています。

寺島実郎

—どのジャンルも極めるって大変なことだと思いますが。

「忙しいのによくこんなにたくさんのことをやれますね」ということをよく言われますが、実はそれぞれの相関(シナジー)の中で、時代を見る目が養われていきます。ひとつの肩書きや名刺では収まらない、かつどれも本気で生きるという意味でのマージナルマンです。

—先生はそんな幅広いご活躍と深い知識を持って、書籍の出版や全国での講演活動もされていますよね。訪れる場所としての福島の印象はいかがですか?

県内の地域によって全然「顔」が違うところが、福島の面白いところ。日本列島の北の重心、ヘソのようなところに白河があり、同時に、会津という独特の歴史を背負っている地域があり―「会津人」という言葉があるくらい、非常に深い場所で、存在感のある人たちをたくさん輩出している。あと、国際人も数多く輩出されています。

—それは知らなかったです!

「江戸から明治、近代に向かうにあたって、江戸よりも北にいた人たちが数多く海外へ出て行きました。薩長の藩閥政権が跋扈していた世の中で、ある意味では時代遅れな生き方をしたのかもしれませんが、だからこそ逆に東北方面からは思い切って外に目を向けた人が多かった。福島から出た野口英世、岩手から出た新渡戸稲造、海外に新天地を求めて出て行った優秀な人たちが物語るように、東北に蓄積されたDNAというのは、明治という時代の断絶の中から苦闘して外へ飛び出し、視界を外にとった、新たなる国際人のDNAです。いわば、当時の出世コースのようなものには乗らずに、海外に目を向けた人たち。東北が生んだひとつのエネルギーになっていると思います。

寺島実郎

—個人的に、福島で思い入れのある場所や名産はありますか?

どの地域にも名産や土産品という物がありますが、中でも「酒」は興味深いです。福島の育てた酒というのは、大きな名産だと思います。地方経済における名望家と言っていいほど、酒蔵の存在は大変大きかったと思います。日本という国が持つ米文化の中で、比較的商品価値があって、地方の文化が注入されているものは酒ですから。酒蔵は、地域にとってのブランドなのです。

—たしかに日本の文化に根ざした産業ですね。地域活性化とも関係があると思うのですが、今の日本の食文化で先生が感じられていることや、今後の食文化の展望もお聞かせいただけますか?

食と観光を結びつけて、地域の活性化を目指そうというのが日本のひとつの流れです。食文化というのをよく見つめていかなくてはならない。その地域の食べ物は、その地域の文化ですから。どの地方もその文化を活かして、付加価値を高めて、海外の観光客をも引き寄せる―これが地域活性化の鍵であることは間違いないです。地域に生きている人が自分の地域をどう認識して、情熱を持ってアピールしていけるか、付加価値の工夫をしていけるか。本当に地場に根ざした食を観光に活かしていくことは簡単ではなく、構想力が重要です。特に福島は土地柄、地域によって多様であるため難しいですが、その分、力のある物語を作っていくこともでき、期待できると思います。そういう意味では、幸楽苑さんも地域から発信した物語と、立派なメッセージを持っていると思います。

—なるほど!それは具体的にどんな物語とメッセージなのでしょうか?

今では「元々福島だったのですか?」と言う方も多いほど全国に展開していますが、元をたどれば、現社長のお父様の時代に小さなお店でスタートさせたところから、今ではこのように全国に展開できる力を発揮するというところには偉大な物語があると思います。どうして福島でスタートしたのか、どういう経緯があったのか、そこにはドラマがあると思います。海外から日本に帰ってきた時に、偶然赤坂に幸楽苑の看板を見つけて、290円という文字には驚きました。「幸楽苑」というネーミングにも、意味がありますよね。「幸楽飯店」という中華料理屋で現社長が身につけた技術だから、ある種の恩義を込めて、福島でこの名前でスタートさせたということですね。

寺島実郎

—ワンコイン500円以下で一食が食べられるって革命的ですよね。

そうです、この価格にも、ある種の隠されたメッセージがあると思います。それは、幸楽苑というビジネスがなぜ成功したのかということにも通じます。現実として、20年前に比べて、例えばサラリーマンが自由に使えるお金が年間で80万円近く減っているのです。ある意味で世知辛く、手元が苦しくなってくるサラリーマンにとって、290円は革命です。デフレ経済の中で、それを逆手にとってメッセージを出しています。今でこそ、ハイエンドでハイクオリティーなメニューもたくさんありますが、当時は290円、今でも390円のラーメンは、そのような世の中に対して、外食産業としてのエールでもあると思います。

—嬉しいお言葉、ありがとうございます!

それで大切なのは、誰もがその価格につられて入ったものの、失望させてしまったら続きません。ネーミング、価格、味。私は、常に時代と戦っている企業だと思っています。そして、アジアが大きくのびている時代。海外への展開も期待しています。

写真/小長井ゆう子
取材・文/杉田美粋

バックナンバー

20th since1997 おかげさまで上場20周年